リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第60回
ビッグマシンの台頭

アメリカンのグループ7導入が残したもの

――日本の自動車レースが始まって、その中心となる日本GPが鈴鹿から超高速コースの富士スピードウエイ(以下、富士SW)に移り、レース形態も大きく変わりました。参加車両も、スポーツカー(GTカー)、ツーリングカー問わず市販車であることが前提でしたが、メーカーのプロトタイプも出場できる規則に変わり、本格的なレーシングマシンのGPにレベルアップしました。しかし、富士で2回目となる1967年GPでは、プリンスからニッサンR380A2になったマシンや個人が大金叩いて購入したポルシェカレラ6やデイトナコブラなど10台にも満たない参加数で、GPの行く末が心配されました。

「その打開策として導入したのはグループ7(以下、G7)というクラス。ちょっと前回のおさらいですが、富士スピードウェイ開場の同じ1966年に始まった米国のカンナムレースの車両規定が実に簡単明瞭で、“えっ、こんなんでいいんか?”と思うほどでした」

――走ることに徹するなら、これで良いんだって感じ、まさにアメリカン(笑)

「まあ、そうでしょうね。考えて見れば、レーシングカーの車両規定は、あくまでも公平を建て前にしているのですが、規定内かどうか微妙な範囲で、少しでも性能を高める工夫がされてしまうものなのです。これがレース本場の欧米でも、エスカレートして次々に規定見直しが必要になる時代でもありました。それならば、表面的なパッセンジャーシートやライト、市販車っぽいボディーなんかに束縛されず、安全機構が完備ならば、ライトもウインカーも助手席も要らない、何千ccのエンジンだって構わない、ただボディーはオープンの規定、これがFIA自動車レース車両クラスのグループ7になるのです」

――将来に市販する予定のプロトカー(試作車)の規定に縛られず、マシン製作の自由度が大きい。

「ええ、大きすぎてね(笑)、カンナムで名をあげたシャパラルなんか、この頃のエンジンは7000cc、後には7600ccにも拡大したり、3速セミオートマチックや、車体後部の大きなウイングなど、正に、これぞアメリカン・レーシングカー!でした。その自由度大きすぎるマシン造りは日本のレース方向の迷いに大きな影響を与えましたねー」

――シャパラルは、ウィングだけでなくオートマチックで話題になりました。

「僕も実物は見たことありませんが、セミオートマということですから、フルオートと違い、クラッチペダルは不要のチェンジレバーの操作だけで変速するのでしょう。F1の20年以上も前にオートマを使っていたのですから、カンナムというかアメリカンレーシングは進んでいるのです。

――シャパラルのジム・ホール代表が、先進的なことに興味がある人だったということもあるでしょうか。

「そうですね。富士SWができる頃に“あのコースはカーブが少ないからギヤチェンジなんかしないでアクセルとブレーキの勝負だ”なんて、いい加減なデマもあったけど、あながち間違っちゃいなかったのかな(笑)」

――話を戻せば、トヨタも新たなマシン造りの方向が出た、と。

「トヨタだけではなく、純然たるレーシングカー所有のニッサンだって、もう2000ccエンジンのR380A2をレベルアップしてもG7規定で造るマシンに対抗できません」

――トヨタ7は3000ccでしたね。最初から打倒ニッサンの構えでニューマシンを作ったはずですが。

「ははは。前回、少し触れましたが、R380のような純レーシングカーを持たないトヨタも何かを開発しなければならなかった。ただ、この時期、トヨタは、単にレースのためのマシンでなく、市販車開発に通用するものとの理念が強かったと思いますよ。当然、排気量無制限のG7規定は解っていても、F1と同等の世界の主要レース種目となればポルシェカレラ6や10やフェラーリなどのプロトタイプスポーツカー(排気量3000cc)ですから、まず開発し易いG7をベースにG6カーに発展させればレース活動の範囲は広がります。そう推測すれば、トヨタの3000ccもうなずけます」

――いくら排気量制限なしのG7といっても、日本では5000や6000ccのエンジンなんて考えられなかったでしょうから。それとニッサンでも2000ccのR380をベースに向上させれば、たとえプライベートの金持ちが大排気量マシンを買い込んでも問題外と踏んでいた?

「そう思いますよ。日本で初試みのG7導入で街のコンストラクターにも良い影響が広がり、また新種のマシンクラスだけでなく、日本のレースが新たな方向に進みだしたGPでもあります」

――えっ、マシンだけでなく、新たな方向と言いますと??

レース全体を見直す試み

「日本GPといっても、ツーリングカー(T)&グランドツーリング(GT)を国内レース=クラブマンレースとし、フォーミュラカー(600cc~3000ccのリブレ)の日本スピードカップ(C)&日本グランプリ(GP)を公開国内レース(国際規定ではないが外国籍ドライバー、チームの参加可)の2本柱にしたのです」

――レースクラスによって出場できるドライバーとできないドライバーが出てきませんか。

「まあそうゆうことですね。つまり、第1回GPから5年経ちますと、純粋なプライベート、形はプライベートでもメーカーの援助が厚いとか、完全なメーカードライバー(ワークス)など、ドライバーやチームの所属も明確になってきました。

それは良いのですが、趣味のドライバー・チームのために開催のクラブレースにも隠れワークスならまだしも(笑)堂々とこれ見よがしのメーカー活動もあって、批判が出始めてきました」

――なるほど、それで何らかの規制が。

「第1、2回日本GPで6位までの入賞者/第3回またはGPの前座レースの各クラス3位までの入賞者/第3回または第4回GPで3分の2以上の周回数を走行した者は国内レースに出られない。また、“国内レースに出るには、JAF(日本自動車連盟)公認レースに1回以上スタートした経歴がなければダメ”、というものです」

――マシンの公平性を保つのはなかなか難しいですが、ドライバーの棲み分けは何かすっきりする感じです。

「学生相撲で職業力士が勝って喜んでいるような場面が結構多かったですからね、まあ進歩の一つでしょう。その影響は参加申込数に表れました。クラブマンのツーリングカーは参加申込74台で予選通過出走37台、グランドツーリング参加56台で出走37台、フォーミュラの日本スピードカップは参加28台で出走17台、メインのGPは参加35台で出走25台と、一年前の暗雲垂れ込むGPが様変わりの盛況でした。でもね」

――でも?

「これは後の問題ですから一先ず置いといて、華やかさを取り戻したGPに戻りましょう」

時間切れのグループ7開発

――それでは、メインのGPが35台ものエントリーで賑わうとは、やはりトヨタの復帰も影響して?

「確かに、このGPを目指したトヨタ7の開発が前評判を高めたのは確かですが、トヨタ、ニッサンのメーカーに対抗するプライベートチームが台頭し、その代表がタキレーシング(Taki Racing Organization)で、他にもフォードACコブラ4700cc(明珍和夫)やトヨタの高級車クラウンエイトに積んだ国産初の乗用車用V8・2600ccのエンジンを搭載したケロヨン号(伊能祥光)など、輸入車、手作り7(セブン)カー、それも800cc、1300ccの小排気量も混じって多彩でした」

――僅か一年で凄い変わりようですね。

「日本の社会は、わけが解らぬ内にガガーンッて突然変異するもんでね(笑)、このレースもG7のエンジンが何ccでも良いとなりゃ、もー5リッターだ、6リッターだ、と分別も哲学もないよね(爆笑)。参加は33台ですが、このレースから決勝進出は1周のラップタイムが2分20秒以上の規定ができて、それに達しないとかマシンの構造で車検がパスできないのもあってスタートラインに並べたのは25台。その半数強の13台が2600~6300ccのビッグマシンでした」

――話題のトヨタ7は3000ccですから、大してビッグじゃない?

「いえいえ立派なビッグですが(笑)、下段のレース結果表で解るように、トヨタ7は福澤幸雄君(故人)、大坪善男君(故人)、鮒子田寛君、細谷四方洋君の4台出場で最高位は大坪君の8位ですから、このレースを見誤ったのは否めないでしょう。

トヨタ7は、後になって関係者の話によれば、まず2000GTのエンジンを載せたG7仕様のシャシーから始まり、最高出力330馬力目標のアルミ製V8エンジンを同時開発したようですが、期待する馬力が得られぬままGPになってしまったようです」

――さらに、ニッサンの奇策? もあって

「奇策って、忍者じゃないんだから(笑)、まあ結果論とすれば、自動車レースの歴史が続く限り、汚ネーとかずるいとか言われるのでしょうが、ニッサンとしてもトヨタが7カーの車両規定で開発すれば現有のR380A2も安泰でないのは歴然です。やはり新たなニッサン7カーの開発が始まり、R380がベースのシャーシーに自社製V12気筒5000ccエンジンを載せたR381の製作が進んでいたようですが、GPには到底間に合わないことが解り、急遽、シボレーのV8気筒5500ccカンナムエンジンに頼る苦渋の決断をしたのでしょう。多分、チーム責任者とすれば、勝てば勝ったで・負ければ負けたで、批判もイヤミも背負うのは承知だった。そのくらいメーカー対抗は激しく、その中にいるドライバーって大変なプレッシャーなんですよ」

――そんな深い事情が絡んでいるとは知りませんでした。そのニッサンR381がテストや予選で走る風景を見れば、もー勝負はついた。

「いーえ、ニッサンチームは大石秀夫君(故人)、横山達君(故人)、黒沢元治君の2000ccR380A2を3台と北野元君、砂子義一君、高橋国光君がドライブするR381を3台、計6台体制でしたが、R380A2が富士SWを走る光景はあっても、R381がGP会場に現れたのは決勝の前日早朝というギリギリの状態でした。そのくらい追い詰められていたと言うことでしょう。だから、幸いに北野君が優勝したものの、高橋国光君はメカトラブルでリタイヤ、砂子義一君もR380が先行の6位ですから薄氷踏む勝利だったでしょう」

――トヨタもニッサンも時間切れのレース参加がありありですが、タキチームなどのプライベートは完成車を買い込めばレースOッKでしょうから有利でしょう

「買い込めばって、とんでもない大金ですよ!(笑)。それに輸入手続きやマシンの整備やコースに合ったセッティングなどなど大変なんですよ。デーラーでクルマ買って、ナンバーつければ走れるってもんじゃない(笑)。とくにタイヤはスポンサーのブリヂストンを使うのですが、カンナムマシンの太い15インチ(6.60/12.50-15)は初めての試練ですから言い知れぬ苦労をしたと思いますよ」

――なるほど、見る側はシャーシーやエンジンがどうのばかり興味を持ちますが、タイヤにオイル、プラグ、いろいろな分野が初めてのチャレンジなのですね

「そうゆうことです。とにかく、このGPを頂点に日本のレースを新たな方向に向けようとしたのは事実ですね。要約すれば、
1) G7を導入してプロトタイプレーシングカーとG6のプロトタイプスポーツカーのクラスを明確にしたこと。
2)耐久性を加味すべきの意見を反映して周回数を80周(480km)に増加したこと。
3) ビッグマシン導入に踏み切って見たこと。
4)プライベート参加が増えたこと。
5)大小排気量車混走の安全性から予選通過タイムを厳しくしたこと。
6) ドライバーの経歴による参加クラスの制限を設けたこと。
7)それと、フォーミュラカーの普及強化に積極的な姿勢が見えてきたこと。
これらの改革がどう進むかは、後に答が出るのだけど、思い切った方向性を打ち出した意欲は認めるべきでしょうね」

――確かに、ようやく日本の最大レースイベントを感じる厚みを感じますね。GPだけでなく、他のクラスも充実してきたのでしょうが、中でも、この大会の特筆すべきことは?

「やはり、速さ、ハイスピードが売りの内容になったことでしょう。このコースが出来た時から、1周のラップが2分を切る(平均速度180km/h)のは誰か、でしたが、前年の1967年GPでポルシェカレラ6の生沢君が公式予選で1分59秒43を出しましたが、それ以外は2分2~4秒くらいが平均でした。それが、1年後には高橋国光君の公式予選タイムが1分50秒88(平均速度196km/h)を筆頭に13台が2分を切ってしまいました。

まあ、トヨタ7の3000cc始め5500ccのビッグエンジンですから当然ですが、黒沢元治君が2000ccのニッサンR380で1分56秒86ですから、総体的にハイスピードレースの時代になった感は否めません」

――高校生だった私も、凄い速度で突っ走る光景に、“ああ、レースというのはこうゆうものなんだ”と、身体中が熱くなったのを思い出します。

「ええ、僕もオートバイ初め高回転エンジンの、かん高くピンキーな排気音に耳慣れた者には、大排気量エンジンが発する重い低音の排気音で疾走する光景は異常でした。何か一つの時代が終わったような(笑)、日本のレースが大きく変わっていくような、複雑な気持ちだったなー。

ダイナミックな力強さを感じながらも、当時の僕の立場からは、もう手が届かないレースになってしまったようで寂しい気持ちもあったし、GP前のトレーニング風景で、疾走からピットに戻ったドライバー仲間の血走った目、ひきつった顔面を見るたびに、また昔に戻ってしまったような複雑さもあったですねー」

5000ccや6000ccのビッグマシンが台頭した。ニッサンR381とローラT70が並ぶ1968年日本GPのスタート。力さんは、ダイナミックな力強さを感じながら、もう手が届かないレースになってしまった寂しさも感じていた。

――それはニッサン、トヨタの覇権争い?

「それもあるけれど、熾烈なメーカー対抗だった第2回GPの雰囲気に戻ったようなね、それに、タキに代表のプライベートチームが大金はたいて大資本のメーカーに挑む光景も何か安っぽいドン・キホーテ的に見えちゃってね」

――いろいろ複雑なのですね。

「まあ、そんな難しいことは置いといて(笑)、30数台の800ccから6300ccのマシンが混走のレースは初めてですから、スピード差による安全面が心配されたのですが、日本のレースも5年経って、レース回数も数百回あったでしょうから,大小マシン相互の立場にも慣れ、ドライビングテクニックやマナーもレベルアップしてきたのでしょう、大きな問題もなかったですね」

――レース結果から見れば、完走周回数もかなりバラツイテいますので、コース上はかなり混乱したのでは、と思いましたが。

「ベストラップでポールポジションの高橋国光君が楽勝視されてスタートし、高橋、北野のニッサンR381とタキチームの田中健二郎さん(ローラT70MKⅢ5800cc)のトップグループが田中のマシントラブル、高橋も同じくリタイヤ、結局、北野元君が80周を2時間37分で優勝したのだけれど、2位の生沢徹君が79周、3位黒沢元治君は78周、4 、5、6位(横山達、大石秀夫、砂子義一)は77周と、大差がついたのが特徴ですね」

――ホームストレッチを300km/h以上で疾走する光景ばかりに目を取られ、あまり気づきませんでしたが、そんなにも違いがあったのですか?

「まあレースですから(笑)、難しい質問ですが、急遽シボレー5500ccエンジンのニッサンR381の優勝ですが、これと同等のビッグエンジンは何台も出ていることを考えれば、ニッサンが米国製エンジンに頼ったとはいえ、本命だった高橋君のリタイヤはシャーシー関係のようですからエンジンは問題なかったようですし、そう推測すれば、やはり大メーカーの整備力が利いているのではないでしょうか。

さらに80周の長距離になればトップグループとのラップタイム差が3~5秒あるとゴール時には2~3周違ってきます。それに1周2分となれば平均180km/h、ストレートでは320キロは出ていますから、そのまま30度バンクに飛び込んでいけるドライバーは何人もいないでしょう、おーコワッ(爆笑)。

さらに日本のトップレースがビッグマシンの時代になったのであれば、マシンとドライバーが拮抗した走りのレベルになるのだろうか、という疑問もありましたよ」

――そうなるとこの1968年GPは、日本のレース界に明るい兆しをもたらしたようですが。

「さーて、それはどうかなぁ、ウフフ(笑)。次回にしましょうか」

◆1967年日本グランプリ
 1. Ⅳ-1 北野   元  ニッサンR381(2時間37分05秒57)
 2. Ⅱ-1 生沢   徹  ポルシェ・カレラ10
 3. Ⅱ-2 黒沢 元治  ニッサンR380
 4. Ⅱ-3 横山   達  ニッコンR380
 5. Ⅱ-4 大石 秀夫  ニッサンR380
 6. Ⅳ-2 砂子 義一  ニッサンR381
 7. Ⅱ-5 片平   浩  ポルシェ・カレラ6
 8. Ⅲ-1 大坪 善男  トヨタ7
 9. Ⅲ-2 鮒子田 寛  トヨタ7
10. Ⅰ-1 吉田 隆郎  ダイハツP5

◆クラブマン・レース(グランドツーリング)
 1. Ⅱ-1 都平 健二  フェァレディ2000 SR311(34分23秒30)
 2. Ⅱ-2 田村 三夫  フェァレディ2000 SR311
 3. Ⅱ-3 辻本征一郎 フェァレディ2000 SR311
 4. Ⅱ-4 中村 昌男  フェァレディ2000 SR311
 5. Ⅱ-5 鯉沼 三郎  フェァレディ2000 SR311
 6. Ⅱ-6 堀田 光三  フェァレディ2000 SR311
11. Ⅰ-1 武智 俊憲  ホンダS800 AS800
12. Ⅰ-2 蒲谷 公夫  ホンダS800 AS800
13. Ⅰ-3 内田 審治  ホンダS800 AS800

◆クラブマン・レース(クラブマン・ツーリング)
 1. Ⅲ-1 大岩 湛矣  トヨタ1600GT RT55(34分49秒14)
 2. Ⅲ-2 川合   稔  トヨタ1600GT RT55
 3. Ⅳ-1 田村 三夫  スカイライン2000GT S54B-2
 4. Ⅲ-3 小平   基  トヨタ1600GT RT55
 5. Ⅳ-2 浜野   順  スカイライン2000GT S54B-2
 6. Ⅳ-3 鈴木 義彦  スカイライン2000GT S54B-2


第六十回・了 (取材・文:STINGER編集部)

制作:STINGER編集部
mys@f1-stinger.com


書籍カバー
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